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zoom RSS 私的・旅「芝居」考-そんな芝居が観たい(観られる!)の話-

<<   作成日時 : 2017/06/10 15:02   >>

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私は芝居を褒めない。
めったに褒めない。
芝居が好きだからだ。
異常(キチ●イと書きたいがいい言葉ではないので)なほど好きだからだ。

ひとりでも、ひとつでも乱すものがあったらアウト。
「観たい!」「観よう!」の集中力の糸が切れる。
汚した、乱した、その瞬間、ぷつん。
ぷつんと切れた糸は1時間やそこらの上演時間で簡単に繋がることはない。
繋がることも稀にあるがほとんどはそのまンま。終わる。終了。
例えば客席がうるさかったとかヤジが飛んだとかそういうことは別に気にならない、切れない。
旅芝居にはつきものだ。本来旅芝居とは芝居とはそういう場で行われてきたはずだ。
それらも取り込んで、それでもちゃんと本流に戻り、幕閉めまでゆく。
舞台と客席が一体となり≪物語(おはなし)≫が進む、はずだ。
しかし気になるのは役者の安易な「くすぐり」や「つかみ」。
ちょっとでもふざけたり客の機嫌をとったり底の浅い笑いをとったりすると、ぷつん。
それアドリブではない、悪ふざけだ。力のなさだ、逃げだ、自信のなさの裏返しだ。
サービス精神や客への寄り添いでもない、媚びだ、不愉快だ。
かといって「どや顔」も嫌だ。
演じる役者のどや顔も、立てた(書いた)役者のどや顔が滲む芝居も。
押し付けがましい自意識は芝居の邪魔、消すのがプロ。

芝居って「作品」であり「総合芸術」だと思っている。
テーマ(伝えたいこと)がある。
テーマを伝えるための物語(おはなし)がある。
物語(おはなし)の筋を運ぶ登場人物(キャラ)が居る。
それを観客の目の前で生で見せる。
生身の人間が自分たちのからだで物語(おはなし)を描いてゆく。
それが芝居であり芝居の面白さだと私は思う。
芝居の中の「誰かが」良かった、「この部分が」良かったを私は言えない。
それはパーツ、パーツが良くてもパーツはパーツ、満足できない、納得しない。

いいな、と思う芝居はすぅっと″sくような気がする。
役と演者がすぅっと合って違和感なくて進む。
押し付けがましい自意識が滲み役者や作り手のどや顔がちらつかない。
登場人物(キャラ)が生き、物語(おはなし)が進む、
おはなしの流れに気持ちよく浸れ、
ぷつんと切れて時計確認することもなく、
気持ちとテーマがすぅっと入ってきて、うわぁっと心にキたりもして
うわぁっと体と心が喜び、幕閉め、余韻に浸れる。

ああ、理想だなあ。
こういう芝居が観たい。
こうじゃないと納得いかないし満足しない。
けど決して理想論ではないと思っている。
出会ったから。
他の何でもない旅芝居・大衆演劇で出会えたから。
出会えたそれは作った本人の意識を越え
どんな芝居どんな映画どんな文学より哲学より心に残るものとなっていたから。
そして私の人生を変えたから。(※この人この芝居!)
だから言おう叫び続けようと決めたのだ。

旅芝居・大衆演劇の芝居は基本的に≪継いできた≫芝居たちだ。
今となってはもう誰かわからないことの方が多いくらい昔昔から
先人たちが作り、残し、継がせ、継いできた芝居たちだ。
そこには「なにか」ある。残ってきた、継いできた、ということは「なにか」ある。
どんな小さな芝居や一見しょうもなさそうな芝居にも。
≪ナカミ≫が。

「自分を観て欲しい」
「この芝居やってるとき、このセリフ言ってるときこのシーンやってる時気持ちいい・楽しい」
「(なんでもええから)この役者を観たい」
ばかりになっているとテーマや物語(おはなし)がどんどんおざなりになってゆく。
芝居が生きながらにして死んでゆく。

また近年の傾向として・・・
デカいセット。
誰もやったことない観たことない仕掛けや趣向。
立ち回りが派手な芝居。
(そんなん「物語」のオマケ「飾り」やないか)
ウケるかどうかわかりやすいつまり媚びやすい喜劇。
(喜劇だって「テーマ」と「物語(おはなし)」がある。
なんでもかんでもええから小手先で笑わすのは喜劇じゃない)
土日や特別狂言や特別公演だけは告知も稽古も趣向も気合い入れて
合間の「平日にやる用の芝居」(なにこの言い方すごく失礼)はテキトーに流してやって。
(新作凄いん当たり前やん。つーか芝居に大小はない。どんな芝居にもそれぞれ物語とテーマがある)
新作。
(新作たくさん作るのも結構。
けれどそれって持ってる服ちゃんと着こなせてないのにどんどん服買うみたいなもんじゃない?)
「飾り」や目新しさもいい。
けれど≪ナカミ≫でしょう。
もし「ナカミ」がちゃんと伝われば伝わるのなら超極論褌一丁でも魅了出来るはず。
え?「毎日100%でやってたら毎日来てもらえない?」。それもどうなん?ほんまに言い訳じゃない?

「物語(おはなし)」が役者のからだを通して見えてくると本当に嬉しい。
「物語(おはなし)」が役者たちにより運ばれ先人たち
(継がせてきたひとたち・作ってきたひとたち・同じようにそうして食っていきてきた先人たち)の想いと
今それを演じている役者たちの想いが重なり、
芝居という「作品」の形で見えてくると本当に「いいものを観た」と満足、たまらない。
さらに毎日が舞台であるからこそ
彼らのナカミ≠ェ滲み曲の「物語(おはなし)」と役者の「人生(ドラマ)」が重なると本当にゾクリとする。
旅芝居ならではの、旅芝居を観ているから出会え味わえた最高の歓び、
そして観た私の人生の糧になるとすら思う。

観られると思うのだ、そんな芝居=A旅芝居だからこそ。

「熱と力」より「華やかさと親しみやすさ」みたいなのが主流になっている昨今の大衆演劇。
もはや「旅芝居」って言葉が似合わなくなってきている気がする。
いいことだ、潤うし、ポップだし、偏見みたいなものも薄れてゆくだろうし。
泥臭い古臭い手書きの字の「旅芝居」「ドサ回り」じゃなくなんだかPOP体で書いてデコった「大衆演劇」。イイネ。
けれどそっちに力いれている内に確実に絶対に芸や継いできたものは落ちてゆく劣化してゆく。
何か大事なものがきっとどんどんだんだん失われてゆく劣化してゆく。
「魂」・・・・「魂」なんて重いダサいとなってしまうと本当に何かが消えてゆく。
そうなれば日々の舞台を演じていて、演じている役者自身が一番あほらしくなってくるはず。
やりがいや生き甲斐が見えなくなってくるはずだ。
生きているのに死んでいるような舞台や芸はかなしい、さみしい、絶対にそうなってはいけない。

先日 今!な劇団を観たことでずっといろいろ考えている。
芝居、大衆演劇、旅芝居、今、これから。
私は芝居が好きだ。物語(おはなし・ドラマ)が好きだ。
だから旅芝居が好きで、嫌いだけど好きだ。人間が好きだ。大嫌いだけど、だいすきだ。
だから考える。言う。叫ぶ。


◆omake◆
※前回の記事からの今回の記事です。
【トンビとカラスと時代と「私」-これまでとこれからの旅芝居へ-】
http://momo1122.at.webry.info/201706/article_2.html

※昔から同じこと言うてます。昔は尖らずまるかったですが(笑)
【いい芝居とは〜My Dear, 大衆演劇、役者さんとお客さん〜】
http://momo1122.at.webry.info/201503/article_1.html

※つれづれ芝居語り。こんなんも書いてますね
【桃的、大衆演劇の芝居の話-・・・からの(やはり)大衆演劇讃歌- 】
http://momo1122.at.webry.info/201610/article_3.html

【大衆演劇、「これから」のために、楽しむために -ある『カラスの仁義』から- 】
http://momo1122.at.webry.info/201612/article_2.html

【心とからだ-大衆演劇、明日のための芝居のはなし- 】
http://momo1122.at.webry.info/201701/article_2.html

※自意識のはなしはこちら
【ちゃんと。やさしく。あったかく。-舞台と客席、「芸」と自意識について- 】
http://momo1122.at.webry.info/201701/article_3.html


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